中野ブロードウェイ「copys888」の店内、スポーツモデルの喧騒から離れた暗がりに、深海を思わせる妖しい輝きを放つ時計が浮かび上がっていた。ブランパ フィフティ ファゾムズだ。その圧倒的な防水性能(最深到達記録保持モデルあり)と、闇の中でも視認性を確保する特注ルミノヴァは、文字通り「深海への挑戦」を象徴する。
「店長、フィフティファゾムズの新ロット! 45mmチタン、オールブラックです!」アルバイトの佐藤が差し出すのは、同シリーズ人気のアブソリュートディープモデルの精巧なレプリカだ。「ケースのマット加工、本物そっくり! 文字盤の特注ルミノヴァもかなり明るい! クローン1315機芯、耐水性も一応1000m表示…」
確かに、手に取るとその無骨なフォルムと重量感は本物を彷彿とさせる。鈍く光るチタンケース、視認性の高い文字盤。かつてのレプリカにあったケースの厚みの不自然さや、ルミノヴァの持続性の低さは改善されている。フィフティファゾムズのレプリカは、そのプロフェッショナルツールとしての過酷なイメージとカッコよさから、アウトドアマニアやハードユーザーを中心に人気が高い。しかし、「深海」という極限環境を標榜するが故に、その「再現」には根本的な限界が横たわる。
「見た目の迫力は確かに本物に迫るな、佐藤。」私は認めつつ、重厚なリューズを回してみた。「ただ、本物のフィフティファゾムズの真骨頂は、この外観のタフネスだけじゃない。文字通り命を預ける潜水士のために開発された、圧倒的な『信頼性』と、極限の水圧と暗闇に耐えるために投入された『技術的狂気』だ。」私はケースバックを指さした。このレプリカは、本物のような分厚いサファイアクリスタルではなく、強化ガラスを使用している。「本物は、深海の水圧に耐えるために、ケース構造や素材、ガスケットに並々ならぬこだわりを持つ。それは『中身』と『命』への絶対的な責任の表れだ。このレプリカには、その『本物の覚悟』はない。形は借り物でも、根幹は異なる。」
その時、店にフルフェイスのヘルメットを抱えた屈強な男、木村が入ってきた。彼は「商業潜水士」を名乗り、実際に深海作業に従事している。
「おお、大古さん! 新型ファゾムズか!」木村は佐藤が持つレプリカを即座に手に取り、ヘルメットの上からルーペで覗いた。「ふん…ケースの作り、確かに本物っぽい。ルミノヴァも悪くない…」彼はリューズの操作感を確かめ、鼻を鳴らした。「…ただ、このガスケットの感触…本物のあの『確固たる密閉感』には及ばんな。それに、この重さのバランス…本物はもっと重心が低く、水中でも安定するんだ。」彼は冷たく笑った。「まあ、陸で雑に使う分には十分だろ。本物を現場でガンガン傷つけるのはもったいないしな。」彼は気軽に購入を決めた。「壊れても泣かない、ってのが最大の売りだ。」
木村がレプリカを「日常使いの消耗品」として購入していくのを見送り、佐藤が呟いた。
「…命を預ける現場では使えないんですね。」
「ああ。」私は頷いた。「彼のような『プロのユーザー』にとって、レプリカのフィフティファゾムズの価値は、『代替品』ではなく、『気兼ねなく使える陸用のアイコン』だ。『本物の命懸けの性能』を熟知しているからこそ、その代替としての限界を冷静に見極めている。」
店が摘発され、レプリカの供給が細る中、ヴィンテージダイバーズウォッチや海洋探検関連の品のコーナーは、静かな熱気を帯びていた。その一角に、一枚の特注のダイバーズウォッチテストレポートと、それに付随する深海テスト用の痕跡が生々しいプロトタイプケースが置かれていた。1970年代のものとされ、レポートには極限環境下での動作データがびっしりと記され、ケースには高水圧による歪みと塩害による腐食の跡が刻まれていた。
ある嵐の夜、一人の男がそのレポートとケースに吸い寄せられるように近づいた。彼の顔には深い日焼け跡と、海風に削られたような皺が刻まれていた。
「…このレポート…」男の声は波の轟きのように低く響いた。「…『プロジェクト・マリアナ』…俺が若い頃、関わった…あの忌まわしいテストだ…。」彼はレポートの特定のページを震える指で押さえた。「…ここ…深度1200mでのケース変形データ…あの時、テスト用のダミーが…あの水圧で…」彼は言葉を詰まらせた。
彼は腐食したケースを握りしめた。「…この歪みと塩害…あの深海の『怨念』が、今でもこの金属に刻まれている…。」
男は、テスト中に仲間を失った痛烈な記憶と、深海への畏怖を語った。
「…値段は?」
私は正直な(そして非常に高額な)価格を伝えた。男は一瞬、海を見つめるような遠い目をしたが、すぐに断固とした表情で頷いた。
「…高い。だが、安すぎたら逆に侮辱だ。」彼はレポートとケースをしっかりと抱えた。「…この紙と金属に込められた、『未知への挑戦』と『失われた命の代償』…それは、精巧なレプリカすら軽々しく超える、計り知れない重みだ。」彼は迷いなく購入を決めた。「これは、単なる『資料』や『ガラクタ』ではない。『人間が海の深淵に挑んだ勇気と犠牲』が凝縮された、生ける記念碑だ。新しいレプリカなど、その前では『海を知らぬ者の玩具』に過ぎない。」
男がレポートとケースを遺骨のように抱えて闇の中に消えていくのを見送り、佐藤が深い畏怖の表情を浮かべた。
「…あの紙と傷だらけのケースが…」
「ああ。」私は左手首の父のオイスターを見た。二つの深い傷痕が、店の灯りに照らされ、生々しく浮かび上がっていた。「彼が買ったのは、『高性能な時計』でも『カッコいい外見』でもない。あのレポートのインクの滲みとケースの歪みに刻まれた、レプリカ時計『本物の深海の記憶』と、挑戦者が払った『血の代償』そのものだ。レプリカは、『深海仕様』の形を借りることはできても、その過酷な環境が生み出した『生々しい傷跡』と、それにまつわる『人間のドラマ』を複製することは永遠にできない。」この傷痕こそが、偽造を絶対に拒む、唯一無二の真実の刻印なのだ。私は、その傷に込められた無言の「叫び」と、その下で確かに鼓動し続ける「本物の命の痕跡」を信じて、この場に立ち続ける。